ベルリン(5)

 

 

今日も、昨日に続きベルリンの街を観光します。エリアとしては主にベルリン中心部ミッテ区、大半が嘗(かつ)て東ベルリンだったエリアです。このエリア内の博物館島は観光初日に訪れていますし、昨日行ったブランデンブルク門は、今日も訪れます。

その前に、個人的な思い出の場所を訪れますが、こちらは割愛しますので観光自体は半日少々です。

 


 

アレクサンダー広場

アレクサンダー広場

トラム(路面電車)でアレクサンダー広場にやって来ました。今日の観光はこのベルリンで最も賑やかで活気溢れる広場から始まります。ここには旧東ベルリン時代に建造されたウーラニアー世界時計があり、アレクサンダー広場駅を挟んだ後方にはベルリンテレビ塔が聳えてます。

アレクサンダー広場 アレクサンダー広場
アレクサンダー広場の世界時計とテレビ塔 アレクサンダー広場の世界時計
アレクサンダー広場

 

ベルリンテレビ塔

ベルリンテレビ塔 ベルリンテレビ塔

ベルリンのテレビ塔です。これも旧東ベルリン時代に建設されたもので、ベルリン中心部のどこからでも見えるランドマークです。球体の展望台まではエレベーターで上れますが順番待ちの長い列が出来ています。

テレビ塔を通り越し、聖マリア教会へ向かいます。

 

テレビ塔と聖マリア教会の南側には、赤の市庁舎が建っています。3日前にこの付近も歩いていますので、ここで一緒に紹介します。

赤の市庁舎

赤の市庁舎

赤の市庁舎と呼ばれるベルリンの市庁舎です。赤い煉瓦造の外観がその名の由来です。時計塔の上にはベルリンの旗が掲揚されています。

赤の市庁舎とテレビ塔 赤の市庁舎のベルリンの旗
赤の市庁舎とネプチューンの噴水
赤の市庁舎とネプチューンの噴水

赤の市庁舎前の公園にはネプチューンの噴水があり、その先にはベルリンで最も古い聖マリア教会が建っています。

 

また、赤の市庁舎西側のシュパンダウアー通りの向かいAm Nußbaumで面白いものを見つけました。

ベルリン気質の三人の像

Die drei Altberliner Originale ベルリン気質の三人の像

ニコライ地区の入口にあるこのブロンズ像は、19世紀の古き良き時代を代表する3人の個性的で愛すべき名物「ベルリンっ子」たちを記念しています。

1. エッケンシュテーアー・ナンテ (Eckensteher Nante)は、街角(Ecke)に立って荷物運びなどの雑用を請け負っていた実在の人物です。お酒と世間話が大好きで、鋭いユーモアと風刺で街の人気者だったようです。

2. 靴職人の見習い少年 (Schusterjunge)は、当時のベルリンのいたるところにいた、やんちゃで口達者な職人の少年です。どんな相手にも物怖じせず、お調子者で機転が利きベルリン気質を代表していました。

3. 花売りの女性 (Blumenfrau)は、街頭で花を売りながら、通行人とユーモラスな会話を交わしていた、たくましくも愛嬌のある下町の女性です。
この作品は、彫刻家ゲルハルト・ティーメ(Gerhard Thieme)によって制作され、1987年に設置されたそうです。

 

聖マリア教会

聖マリア教会

テレビ塔から徒歩2~3分、聖マリア教会へやって来ました。

この教会は、ベルリンで二番目に古い教会とされています。一番古い教会は近くのニコライ地区に建つ聖ニコライ教会と言われていますが、こちらは第二次大戦後再建され、教会としての役割を終え博物館となっていますから、現役の教会としては聖マリア教会が最も古いことになります。

この教会の塔の広間に描かれた「死の舞踏」Totentanzのフレスコ画を観るのが訪れた目的です。

また、この教会は森鴎外の自叙伝的短編小説「舞姫」の舞台のひとつとなっています。
主人公、太田豊太郎が夕暮れ時、この聖マリア教会の扉の前で一人で立ってすすり泣く美しい少女エリスにその理由を尋ねたのが、出会いの始まりとされています。
太田豊太郎は鴎外自身がモデルであり、エリスは鴎外がドイツ留学中に交際していたエリーゼ・ヴィーゲルトという女性がモデルだとされています。しかし、作中のエリスの発狂は創作のようです。
ベルリンの森鴎外記念館はブランデンブルク門前のヴィルヘルム通りを北へ徒歩10分程、ルイーゼン通りとマリーエン通りの角にあります。


聖マリア教会とネプチューンの噴水 聖マリア教会

聖マリア教会の扉口



聖マリア教会正面 (右後方はテレビ塔)  

教会内に入ります。見学は無料です。

 

死の舞踏のフレスコ画 Totentanzfresko

死の舞踏のフレスコ画

教会に入ると、直ぐ左側の塔の広間にある「死の舞踏」のフレスコ画です。ベルリンに現存する最も重要な中世美術作品の一つとされていますが、この前で立ち止まる見学者はわずかなようです。

西側から柱を回り込み、西壁から北壁に沿って続く長さ22.6m、高さ2mの壁画には聖職者と世俗者が死神を伴って踊り歩く様子が描かれています。制作時期は、ベルリンでペストが流行した1484年頃とされています。
壁画の手前にはガラスの壁が設置され、中に入ってすべてを間近に観ることは出来ません。退色損傷はかなり進んでいます。復元途中のイメージはこちらで観ることができます。

死の舞踏のフレスコ画 死の舞踏のフレスコ画
死の舞踏のフレスコ画 死の舞踏のフレスコ画

左上の写真は聖職者らしき人物の間に死神がいます。右上も聖職者と死神でしょうか。

死の舞踏のフレスコ画 死の舞踏のフレスコ画

下の写真はほとんど退色して輪郭だけが残っています。世俗者と死神であることが分かります。

死の舞踏のフレスコ画 死の舞踏のフレスコ画

身廊へと進みます。

聖マリア教会
聖マリア教会 身廊 聖マリア教会 主祭壇
聖マリア教会 北側廊 聖マリア教会 北側廊

聖マリア教会 説教壇 聖マリア教会

聖マリア教会 パイプオルガン 聖マリア教会

更に博物館島方向へ歩いて行きます。

 

東ドイツ博物館

東ドイツ博物館と遊覧船乗り場 東ドイツ博物館と遊覧船乗り場

聖マリア教会から歩くこと6~7分、シュプレー川に架かるリープクネヒト橋(Karl-Liebknecht-Brücke)の手前までやって来ました。シュプレー川の対岸にはベルリン大聖堂が建っています。シュプレー川の遊覧船乗り場もここにあり、その前には再統一前の東ドイツの日常生活を紹介する東ドイツ博物館(DDR Museum)があります。面白そうなので見ていきましょう。


東ドイツ博物館と遊覧船乗り場 東ドイツ博物館

統一国家の道のり 東ドイツ博物館

上の写真は、館内に掲げられた、1945年5月8日のナチス・ドイツの無条件降伏から1990年10月3日の再統一までの道のりを解説したパネルです。東ドイツ博物館では、この期間の東ドイツの社会や人々の暮らしを紹介展示しています。


東ドイツの概要展示 東ドイツの概要展示

東ドイツの概要説明 陸の孤島西ベルリンと東側のテレビ塔

 


ベルリンの壁のジオラマ 右が西ベルリン 監視塔

 


トラバント601の説明 トラバント601のボンネットに記載された仕様

トラバント、愛称トラビの展示コーナーです。
自動車を所有することは東ドイツでも移動手段とステータスシンボルの象徴だったようです。それは不自由な国で、ある種の自由を約束するものでしたが、新車購入は最長16年待ちという憧れの車でした。しかし、スペアパーツやアクセサリーは常に不足し、修理工場の予約を取ることは容易ではなかったそうです。
トラバント601は、26という数字が深く関係しています。26馬力、26リットルの燃料タンク、26年の製造期間、しかし、特権階級向けの割り当てを除けば、納車までの期間はその半分の13年だったそうです。

トラバント601のボディ素材は、リサイクルされた綿の廃棄物や木綿パルプに、フェノール樹脂を含浸させて熱圧成形した「デュロプラスト」と呼ばれる特殊な繊維強化プラスチックです。東ドイツでは鋼鉄が極めて不足していました。615kgという軽量のため段ボール製と揶揄されたこともありました。


トラバント601 トラバント601

トラバント601 トラバント601

 


スクーター SR59 Berlin

これは旧東ドイツで1959年から63年にかけて製造されたIWL社製の「SR59 Berlin」というスクーターです。ホワイトとエメラルドグリーンのツートンカラーが特徴です。

 


東ドイツ博物館 東ドイツ博物館

食料品 東ドイツ博物館 食料品 東ドイツ博物館

当時東ドイツの食料品店に並んでいた品々です。それぞれ金額が表示されています。単位は東ドイツマルクです。
東西マルクの公定レートは1対1でしたが、1970年代前半当時、西ベルリンの両替所で普通に西マルクを東マルクに交換すると、実勢レートは1対4でした。
(当時の1西ドイツマルクは約100円でした)


食料品 東ドイツ博物館

食料品 東ドイツ博物館 食料品 東ドイツ博物館

東西ドイツの貨幣 フォーラム小切手

左上の写真は東西ドイツの通貨です。上段が西ドイツマルクで、下段の左半分が東ドイツマルクです。

右上の写真はフォーラム小切手です。1979年以降、東ドイツで西ドイツマルクなどの西側通貨を所持することは法律で禁じられ、フォーラム小切手への両替が義務づけられました。両替レートは1対1です。こうして政権は外貨を吸い上げていました。この小切手は西側の商品を扱う国営のインターショップでの事実上専用の支払い手段でした。国民はこれを使って憧れの西側製品を購入することが出来ました。


幼稚園 一般家庭の居間

幼稚園(左上写真)は単なる託児所ではなく、東ドイツで生まれた人にとって初めての教育機関でもありました。そのため、国家指導部は包括的な教育機会に強い関心を持ち、90%以上の子供達が入園できました。社会主義的な道徳観と共に共同生活への積極的な姿勢は、個々の能力の発達よりも重要な学習目標と見なされました。


刑務所 一般家庭の浴室

左上の写真は嘗て東ドイツ時代にバウツェンにあった悪名高い政治犯収容所の独房を再現した部屋です。ここに興味深い解説がありました。

『「東ドイツは遠からず刑務所も壁も必要なくなるだろう」と、嘗てヴォルフ・ビーアマンは言いました。彼がまだよりよい社会主義を信じていた頃の話です。何という間違えだろう!
刑務所はSED(ドイツ社会主義統一党)体制を支える重要な柱のひとつでした。1949年から1989年までの間に、約25万人が政治犯として有罪判決を受け、意図的に非人道的な扱いを受けました。政権は自国民に対する絶え間ない脅威を必要としていたのです。囚人を西ドイツに売り渡すことが儲かる収入源になって初めて多少の改善が図られました。』

旧東ドイツでは政治犯を西ドイツに売却して収入を得ていました。
旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)は1962年から1989年の崩壊に至るまで、反体制派などの政治犯や亡命希望者を西ドイツに買い取らせる「フライカウフ(Häftlingsfreikauf 囚人の買い取り)」と呼ばれる人身売買のような制度を組織的且つ極秘裏に行い貴重な外貨や物資を獲得する重要な手段としていたのです。


東ドイツ博物館

ドーピング

上下3枚の写真は、ドーピングに関する展示です。
旧東ドイツで開発された経口トゥリナボル(Oral-Turinabol)は、1970年以降、国家主導で競技スポーツに広く使用されました。このアナボリックステロイドは筋肉を強化し、攻撃性やリスクを冒す行動を刺激します。コーチ達はビタミン剤に偽装して子供達にドーピング剤を投与すことさえありました。かれらは肝臓やホルモンバランスに深刻な副作用をもたらす危険を冒し、多くの人が生涯にわたる後遺症に苦しみ、中には亡くなった人もいたのです。


経口トゥリナボル(Oral-Turinabol) 経口トゥリナボル(Oral-Turinabol)

東ドイツ博物館 東ドイツ博物館

東ドイツ博物館 東ドイツ博物館

なかなか興味深い展示でした。館内は、さほど広くはなく見学者でごった返しています。左上の写真のような棚には大小の引き出しがあり、それを引き出すと色々な展示物が見られ、展示スペースを補っています。
それでは、東ドイツ博物館の見学はこの位にして先に進みます。

 

リープクネヒト橋を渡って博物館島へと入ります。

 

博物館島

ベルリン大聖堂

ベルリン大聖堂

リープクネヒト橋を渡り、シュプレー川の中州、博物館島に入ると直ぐ右側にベルリン大聖堂が建っています。

ベルリン大聖堂
ベルリン大聖堂 ベルリン大聖堂
ベルリン大聖堂 ベルリン大聖堂

 

博物館・美術館


旧国立美術館 新博物館

博物館島内の旧国立美術館と新博物館は、すでに3日前に訪れています。別のページで紹介していますのでそちらをご覧下さい。

旧国立美術館 のページへ
新博物館 のページへ

 


   

こちらは、博物館島にある旧博物館(アルテス・ムゼウム)ですが、今回の旅では訪れていません。

Museum Insel バス停付近より

上の写真は、博物館島のバス停付近から東方向を撮ったものです。ベルリン王宮(フンボルト・フォーラム)前の広場にはインドのサーンチー第1塔東塔門の実物大レプリカが設置されています。フンボルト・フォーラムにはベルリン民族学博物館とアジア美術館があります。

Museum Insel バス停付近 右側にサーンチー第1塔の「東塔門のレプリカ

塔門の実物の写真も見てみましょう。


サーンチーの仏教遺跡第1塔(大ストゥーパ)の東塔門 2024



サーンチーの仏教遺跡第1塔(大ストゥーパ)の東塔門 2024  

上の2枚の写真は、インドのマディヤ・プラデーシュ州にある世界遺産「サーンチーの仏教遺跡」にある、第1塔(大ストゥーパ)の東塔門のオリジナルです。
2024年に訪れた時の写真です。
紀元前1世紀頃に建設され、日本の鳥居の起源とも言われるもので、門全体には、釈迦の生涯(仏伝)や当時の人々の生活を描いた非常に精巧なレリーフが彫られています。

 

続いて、博物館島の地下鉄駅からブランデンブルク門へむかいます。

その前にウンター・デン・リンデン界隈を歩いてみましょう。この箇所も3日前に歩いたところですが、今日の観光ルート上なのでここで紹介します。

 

ウンター・デン・リンデン (Unter den Linden)

ウンター・デン・リンデンのバス停

ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden) は、ベルリンの中心部を東西に貫く大通りです。西の起点ブランデンブルク門の前から博物館島の旧ベルリン王宮(フンボルト・フォーラム)前まで続いています。

イチゴの直売スタンド(準備中) ウンター・デン・リンデン

この可愛らしいイチゴ型の売店は、ドイツの農園Karls(カールス)の移動式直売スタンドです。

アンペルマンショップ

アンペルマンショップ ウンター・デン・リンデン アンペルマンショップ ウンター・デン・リンデン

ウンター・デン・リンデン (Unter den Linden) のバス停前のアンペルマン・ショップです。
アンペルマンAmpelmannは、旧東ドイツ時代にベルリンで考案された歩行者用信号機のキャラクターです。今ではベルリンだけでなく、旧東ドイツの一部の都市でも採用されています。
初めてこのアンペルマン信号機が設置されたのは1969年、東ベルリンのウンター・デン・リンデン通りとフリードリヒ通りの交差点でした。その場所がまさに左上の写真の左端(左下写真が拡大)の交差点です。

アンペルマンショップ前の信号 赤の市庁舎付近
進め信号 止まれ信号

アンペルマンショップの向かいには、ドイツ生まれのスキンケアクリーム「ニヴェア」(ニベア)のショップ、ニヴェアハウスがあります。ちょっと覗いてみましょう。

 

ニヴェアハウス

ニヴェアハウス
ニヴェアハウス ニヴェアハウス

 

ジャンダルメンマルクト広場


コンツェルトハウス・ベルリン(旧劇場) コンツェルトハウス・ベルリン と フランス大聖堂

ウンター・デン・リンデンから南へ徒歩7~8分のジャンダルメンマルクト広場付近も3日前に歩いたところです。ウンター・デン・リンデンからそれほど近いわけではありませんが、ここで一緒に紹介します。

左上の写真は、コンツェルトハウス・ベルリン(Konzerthaus Berlin)です。現在はコンサートホールとして使用されています。


フランス大聖堂

上の写真はフランス大聖堂 (Französischer Dom)です。フランスのカルヴァン派プロテスタント(ユグノー)のために建てられました。
礼拝堂としての正式名は、フランス・フリードリッヒシュタット教会(Französische Friedrichstadtkirche)と言い、後に増築されたドームのある塔を含めた建物全体のランドマークとしての名称がフランス大聖堂だそうです。内部にはユグノー博物館や展望台などがあり一般公開されています。

ユグノーとは、フランスのカルヴァン派プロテスタントの人々です。
1685年、フランス王ルイ14世は、フォンテーヌブローの勅令を発布し、プロテスタント(ユグノー)に信仰の自由を認めていたナントの勅令を破棄しました。これにより、多くのユグノーは迫害を逃れて国を追われることになります。彼らは新天地をプロイセンに求めたのです。

一方、プロイセンは三十年戦争の後、人口が激減し労働力不足に苦しみ全土は荒廃していました。そこで大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1685年ポツダム勅令を発しユグノーに支度金や土地などを提供し移住を促します。数年で2万人以上のユグノーがベルリンとプロイセンに定住したそうです。

彼らはそれまで一般市民がまったく知らなかった白アスパラガス、キュウリ、インゲン豆、カリフラワーなどの新しい食材をベルリンのモアビット地区などで栽培し始めます。この辺りにもユグノーが暮らしており、彼らはこの新しい故郷を旧約聖書にあるモアブ人の物語と自分達の境遇とを重ね合わせモアビットと名付けました。

 

ベルリン郊外の露店で売られていた白アスパラガスとキュウリ 2026.04

上の写真は、ベルリン郊外の露店で売られていた白アスパラガスとキュウリです。ユグノーの人々がベルリンにもたらした野菜です。白アスパラガスはこれからが旬です。Dtはドイツ産であることを表し、地産地消が重視されています。

 

ブランデンブルク門

   

博物館島から地下鉄でブランデンブルク門へやって来ました。ブランデンブルク門には昨日も来ており、昨日のページにまとめて紹介していますのでそちらをご覧下さい。

ブランデンブルク門 のページへ
ブランデンブルク門を通して戦勝記念塔を望む

 

ブランデンブルク門の西、ティーアガルテン方向の遥か遠方に戦勝記念塔が見えます。(上の写真)

昨日はここから南側のホロコースト記念碑(虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑)を見て、その後ベルリンの壁のイーストサイドギャラリーへ向かいました。
今日は北側の国会議事堂を見てから、あのティーアガルテンの戦勝記念塔へ向かいます。

 

 

ここから先は西ベルリンだったエリアです。

 

国会議事堂  Reichstagsgebäude

国会議事堂
国会議事堂 国会議事堂
国会議事堂のガラス張り屋上ドーム 国会議事堂とガラス張り屋上ドーム
ベルリンの旧国会議事堂 1970年代前半

上の写真は、西ベルリン時代、廃墟となっていた頃の旧国会議事堂です。当時、西ドイツの首都はライン河畔のボンでした。再統一後は大規模な増改修を経て現在に至っています。
現在の写真と見比べるとファッサードはそのまま生かされていることが判ります。

 

旧在ドイツ日本大使館 1970年代前半

こちらは、ひとつ前の写真と同じ時期に撮った旧在ドイツ日本大使館の正面です。建物の上部には「菊の御紋」が見えますが、国旗は掲げられていません。当時の大使館は首都ボンに置かれていましたから西ベルリンの旧大使館は一時廃墟となっていました。再統一後は本格的な増改築と復元を経て大使館として蘇っています。

 

 

 

それでは、国会議事堂のバス停( Reichstag/Bundestag)から100系統のバスで戦勝記念塔へ向かいます。

 

ベルビュー宮殿 Schloss Bellevue

ベルビュー宮殿(Schloss Bellevue)

戦勝記念塔へ向かう途中、バスの車窓から撮ったベルビュー宮殿(Schloss Bellevue)です。1994年以来、ドイツ連邦大統領の官邸として使用されています。

 

戦勝記念塔 Siegessäule

グローサー・シュテルン(Großer Stern)バス停

戦勝記念塔前のバス停(Großer Stern)に到着しました。
近くには、ドイツ帝国の初代首相で鉄血宰相と呼ばれたビスマルクの記念碑(Bismarck-Nationaldenkmal)が建っています。

ビスマルク記念碑
戦勝記念塔 戦勝記念塔

戦勝記念塔は、1864年のデンマーク戦争の勝利を祝い1864年に着工し、その後の普墺戦争普仏戦争にも勝利したため一連のドイツ統一戦争を記念して1873年に完成しました。当初の建設地は王の広場(Königsplatz)、現在の国会議事堂前の共和国広場(Platz der Republik)でした。塔頂の勝利の女神ヴィクトリアは西を向いていました。その理由は、当時プロイセン王国が戦いを繰り広げていた最大の宿敵であったフランスの首都パリを睨むためだったと言われています。
その後1939年、ナチス・ドイツの都市改造計画に伴い、現在のティーアガルテンの中心部グローサー・シュテルン交差点へビスマルク記念碑などと共に移設されました。塔頂の黄金のヴィクトリア像(西向き)とブランデンブルク門のヴィクトリア像(東向き)で西と東の両方向を望んでいます。


戦勝記念塔のヴィクトリア像 戦勝記念塔のヴィクトリア像
戦勝記念塔のモザイク画

さて、塔は円形交差点の中央に建っていますが横断歩道はありません。塔へはどう渡れば良いのでしょうか。
辺りを見回すと地下通路の案内板がありました。通路は西と東に各2箇所あります。


地下通路の案内板



  地下通路の入口
地下通路の階段から戦勝記念塔を仰ぐ 戦勝記念塔のヴィクトリア像

通路を抜け塔の真下にやって来ました。

戦勝記念塔
台座のレリーフと塔に昇る入口

塔には有料で昇ることが出来ますが、エレベーターはありません。螺旋階段をひたすら上ることになります。塔上からは素晴らしい景色が望めるはずですが、連日1万数千歩は歩いているので少々疲れぎみなので止めておきます。

戦勝記念塔からブランデンブルク門を望む 戦勝記念塔からブランデンブルク門を望む

戦勝記念塔から東方向を望むと真っ直ぐ伸びる6月17日通りの向こうにブランデンブルク門が見えます。その背後の塔は赤の市庁舎です。写真で見るとブランデンブルク門が近くに感じますが、歩くと30分はかかるようです。

東側の地下通路入口

それでは、バス停(Großer Stern)から、100系統のバスで今日の観光の出発点アレクサンダー広場まで戻り、トラムに乗り換えてホテルに帰ることにします。

 

3日間のベルリン観光はこれで終わりです。


当然のことですが、ベルリンは前回訪れた時とは大きく変貌していました。記憶にある場所を除けば、自分がいるところが西ベルリンだったのか、東ベルリンだったのかは辺りの様子からだけでは容易に判断できません。
しかし、宇宙からベルリンの夜景を見るとかつての東西分裂の歴史が光の色に反映されているそうです。このページの最初の写真を見て下さい。ベルリンの東側はオレンジや黄色に光っているのに対し、西側は白っぽく、多少緑がかっています。つまり、西と東では異なる色で光っているのです。
旧東ベルリン地区では街路灯にいわゆるナトリウム蒸気灯が多く使われ、旧西ベルリン地区では蛍光灯やLEDが広く普及しているからだそうです。しかし、州政府は東側の街灯を順次LED灯に交換しています。将来的には宇宙から真っ白なベルリンだけを見ることになるでしょう。

また、街灯の外観からもある程度東西ベルリンの違いが判るそうです。旧東ドイツではとりわけRSL灯(Rostocker Straßenleuchte)が代表的で、支柱が真っ直ぐ上に伸びその上に灯りが設置されているのが特長です。これに対し旧西ベルリンではいわゆるクルツフェルト灯(Kurzfeld-Leuchte)が広く普及し、支柱が鞭のように湾曲しているのが特長です。
しかし、RSL灯は消費電力が非常に大きいため省エネ型LEDの新しい街灯への移行が進められているそうです。その場合でも景観維持などの理由でオリジナルの外観を維持したまま光源部分を交換する場合も多いようです。

 

以下は、今回の旅行で撮った街灯の写真の一部です。

 

旧東ベルリン地区

赤の市庁舎付近の街灯(旧東ベルリン地区) 赤の市庁舎付近の街灯(旧東ベルリン地区)

上2枚の写真は、旧東ドイツエリアの赤の市庁舎付近の街灯です。ベルリンの中心街ですから、以前の外観を再現して新しいLEDに取り替えられているのでしょう。外観は一様ではなく様々です。

聖マリア教会前の街灯(旧東ベルリン地区)

こちらは聖マリア教会前の街灯です。

 

旧西ベルリン地区

カイザーヴィルヘルム記念教会近くの街灯(旧西ベルリン地区) ポツダム通りの街灯(旧西ベルリン地区)

こちらの上下4枚の写真は旧西ベルリン地区の街灯です。支柱が鞭のように湾曲しています。しかし、ガス灯もまだ健在ですし、外観は一様ではありません。

ベルリン郊外の街灯(旧西ベルリン地区) シャルロッテンブルク宮殿前のガス灯(旧西ベルリン地区)

 

スーパーマーケット

   

これらの写真は、宿泊したホテルのすぐ近くの大手スーパーマーケットの店内で撮ったものです。サンドイッチや飲物も豊富なので夕飯を軽く済ませたい場合は便利でした。また、ペットボトルのデポジット(預け金)のリファンド(返金)も手軽に出来るので便利です。

   

猫好きの方へのお土産にいかが?

   

 

明日は、今回の旅の最後にベルリン近郊のシュプレーヴァルトを訪れます。また、途中でちょうど見頃を迎えた旧ベルリンの壁跡地の桜並木、テレビ朝日さくら平和通り(TV Asahi Kirschblütenallee)にも立ち寄ります。

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